慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 前野 隆司




思考脳力のつくり方−仕事と人生を革新する四つの思考法

(角川oneテーマ21、2010年4月10日発売)

 

上記の本は、原稿が長くなりすぎたので、カットした部分があります。

以下に示す、各章のまとめと、第5章の5つの例題です。

せっかくなので、ここに掲載します。

 

【第1章のまとめ】

現代は閉塞感の時代といわれる。その根本的な原因は、「大きなビジョンを描き、実現する」ための、システムとしてのものごとの見方が不足していることだ。

その理由は、産業史的に見ると、ビジョンが不要だった戦後および高度成長という時代が続いたことと、IT革命によりゲームのルールが変わったことだということができる。

システム哲学的に見ると、あらゆるシステムの普遍化を追い求めた近代的パラダイムから、普遍化が不可能であることを痛いほど思い知ったポストモダンパラダイム、それらを越えて、「普遍化が不可能であることを十分承知した上で、普遍化を目指さざるを得ない、二十一世紀という時代」への変遷ということができる。

システム思考の文脈から述べると、システム思考という近代的なパラダイムから、ポスト・システム思考というパラダイム、そして、システム思考を超えたシステム思想によりあらゆる問題に取り組まざるを得ない現代、という時代の変遷といえる。では、どうすればよいのか。それは次章以降の論点である。

 

【第2章のまとめ】

要素還元思考は、システムを要素に分解し、分解された要素のことだけを考えて、その研究や開発やその他の業務を進めていけば、全体システムを理解できるだろう、という考え方だ。しかし、世の中のシステムはほとんど皆、創発システムであり、創発システムではいくら要素の振る舞いを明らかにしても、全体の体系的理解にはつながらない。

したがって、システム思考が必要である。システム思考とは、要素の間の関係性に着目し、システム全体の特徴を明らかにしようとするやり方だ。ここで重要なのは、「システムの内部では何がどのようになっているか」を明らかにするだけではなく、「システムの外部が、なぜ、システムがそうなっていることを規定しているのか」という、システムを取り巻く多様な価値を「多視点から可視化」するという点。その際、時間軸と空間軸がマルチスケールになっていることを陽に考慮し、時空間スケールと抽象度を自在に変えて、様々な視点に立つことが重要だ。

システム内外の「多視点からの可視化」を実現するために、ツリー型、マトリックス型、ネットワーク型の手法を、必要に応じて使い分ける必要がある。

また、バックグラウンドの異なる集団(チーム)は「多視点」のために有効だし、「可視化」は相互理解やチームでの創造性のために有効だから、システム思考はチームで用いるときに力を発揮する。

 

【第3章のまとめ】

システム思考では解けない問題があった。複雑系の科学が問題提議したカオスの問題や、「右派と左派はどちらが正しいか」「観測者はシステムの外部にいると言い切ってよいのか」といったような、イデオロギーや哲学・思想の問題である。もはや論理的に「どうすべきか」を決定したり「最適解」を求めたりすることが「不可能」なシステムが歴然と存在する。では、このような「解けない」問題をどうやって解決するのか? 答えは、仮にポスト・システム思考と呼ぶ考え方の中にある。それは、最適化するのではなく満足化したり、一つの答えへの合意形成を目指すのではなく相互理解を目指す、システム構築ではなく学習・成長を目指す、要素間の矛盾をなくすのではなく容認する、というように「視点のレベルを変える、またはずらす」ことによるのである。一見、はぐらかされたように思われるかもしれないが、そうではない。要素還元思考からシステム思考に進む時に行なったのと同様な「視点のレベル変更」が、システム思考からポスト・システム思考へのパラダイムシフトなのである。そして、それは、現代というボトムアップ型・ネットワーク型・予測困難型社会において、急速にその必要度を増しているのである。

 

【第4章のまとめ】

ポスト・システム思考で解決できない問題をひとことでいうと再帰性(自己言及)の問題である。論理・科学では解けない哲学的な課題と言ってもよい。たとえば、「そもそも私は存在するのか、しないのか」という問題。すなわち、脳科学の成果は、心は幻想だという現実を私たちに突き付けるが、しかし、第一人称的な心を私たちは今もまさに確実に経験し続けているという矛盾。あるいは、「現代とは絶対的な倫理規範が存在しないニヒリズムの時代である、という時代観を突き付けられた私たちが、それでもしかし、ニヒリズムを超えて日々価値判断を行い自分自身の行動を生成し続けなければならないという現実」という問題。このような問題は、満足化し、相互理解し、学習・成長し、部分的矛盾を容認するポスト・システム思考では解決できない。なぜなら、ポスト・システム思考は、システムには論理を超えたふるまいが生じることを「論理的に」理解する枠組みだからである。この問題を解決するには、要素還元思考からシステム思考へ、システム思考からポスト・システム思考へ、と進んで来た時と同様な「視点のレベル変更」が必要である。ヒントは東洋思想にある。二項対立図式を超え、「システムは自己であり、同時に自己ではない」「私は存在し、同時に存在しない」「価値規範も存在し、同時に存在しない」「欲があり、無欲であり、至福である」というものごとの根源的なあり方を論理(西洋的論理)としてではなく身体感覚として受け入れることである。このようなありかたを、「システム思考」を超えるという意味で、仮に「システム思想」と呼んでいる。

 

【第5章 思考を整理する】

 

(例11)子供のいじめの問題

●要素還元思考

神経質な子供と対照的に、性格の悪い子、いわゆるいじめっ子の場合も要素還元論的だ。小学校時代、いじめっ子というのはどのクラスにもいたものだ。自分勝手で手に負えない。神経質な子は、(私もそうだったが)人の目が気になって授業中に手を上げられなかったりするが、これは人の目を意識している分、多視点からのシステム思考の片鱗だということもできる。これに対し、いじめっ子は自分の視点が極めて強いからたちが悪い。要するに、他人の視点に立てない。そのまま育ってしまったわがままな大人も要素還元思考系だ。堅気の世界でないところにいる大人たちは、仲間に対しては優しくシステム思考的だが、敵の考えは徹底的に無視する。法律という視点さえも無視する場合もある。大人になる際に彼らがシステム思考に移行する機会を奪ってしまう社会のあり方にも問題があるというべきだろう。さて、どちらかといえばいじめられる側だった子供の頃の私も、いじめっ子は嫌いだった。今思えばこれも要素還元思考だ。

●システム思考

いじめに対するPTA(保護者たち)の態度も要素還元論的な場合が少なくない。悪ガキをなんとかしろ、先生が悪い、と学校に敵対し、自分の子供を守る立場に徹する。モンスターペアレントもこのパターンだ。外に対し、ネガティブなあり方。いじめに敵対するやり方。これに対し、システム思考的な親のあり方とは、学校の立場、いじめられた子の立場、そして悪ガキになってしまった子供の立場を、過去にさかのぼって多視点から分析し、皆で話し合って、対処する方法を創造的に見つけるようなやり方だ。親が協力して登下校を見守るとか、しっかりと家庭での教育を行なうとか、いじめっ子やいじめられっ子のメンタルケアをするとか、様々な解の可能性を吟味して、ポジティブに皆の幸せを目指す。皆が幸せなほうが自分たちも幸せになれるという合理的な判断だ。実際、アメリカの裕福な地域のPTAは、連携してすばらしい効果をあげている。そんな理想はこのすさんだ日本では無理だとしたら、システムの時空間レベルと抽象度をさらに上げて、日本の教育はどうすべきかをもっと真剣に話し合わなければならない。

●ポスト・システム思考

そもそもいじめは本当に悪いことなのだろうか。もちろん、被害者が肉体的・精神的なダメージを受けるレベルまで行ってしまうと問題だが、もっと小さないじめまですべて刈り取ってしまうべきかというと、それにはデメリットもある。子供の脳は未熟だ。先ほども述べたように、人の立場にたって価値判断するシステム思考が苦手だ。だから、いじめたり、いじめられたり、しかられたり、悩んだり、傷ついたりする中で、経験を元に学習し、自分はこんなことをしてはいけない、こんなことをすると人は傷つく、といったことを学ぶ面もあるのだ。人生の失敗も挫折も必ず成長の糧になっていて、将来どこかで役に立つ。したがって、いじめは一概に悪いとは言い切れない面もある。もっというと、社会適応を促しているという面もある。いじめられやすい子供は、自分にとっていじめられない社会とは何か、いじめっ子は、そのような自分を生かせる世界はどこかを模索している面もある。つまり、いじめを通して、子供たちが性格や特徴に応じた進路を見つけていくという重大な側面を否定できない。善悪という二項対立ではなく、全体の満足化が必要なのだ。

●システム思想

動物の世界は弱肉強食。自然の摂理にしたがってなるようになっているに過ぎない。人間もちっぽけな動物に過ぎない。社会がいじめをやめさせようとしても、実は成長や社会適応の機会を奪い、別の形で社会のひずみを生みだしている面もある。しかも、不確定性が大きく、アクションの効果は読めない。要するに、最適解だけでなく、満足解すらないともいえる。泣いても笑ってもそれが人生。どんなに工夫しようとも、努力しようとも、宇宙の長い歴史から見ると人間もはかない存在に過ぎない。他の動物よりも多少多様な判断を繰り返しているだけだ。無常だが、それが世界だ。見方を変えれば、いじめられっ子も一日中いじめられているわけではない。それ以外の時間は、絶対平和が訪れていたっていいはずだ。そうなっていないのは、いじめの問題に心がとらわれているからだということもできる。酷なようだが、事実を受け入れるシステム思想も必要だ。もちろん、このような問題は、システム思想のレベルではなく、もっと前の段階で解決することが望ましい。前の段階で、何らかの形で解決されるからこそ、絶対平和が訪れるのだから。

 

(例12)親から見た子供の教育のあり方

●要素還元思考

子育ては難しい。予習もしないうちに本番がやってきて、次から次へと難題に直面する。たとえば、どれくらいしかっていいものかがわからない。しかる教育はよくないから、ほめる教育をすべきだ、といわれる。いや、甘やかして育てるから今の若い者はだめになったので、昔のようなしかる教育に戻せ、という意見もある。それぞれはスタイルだから、どちらでもいいのだ、という意見もある。さらには、しかるのもほめるのもだめで、エンカレッジするのが大事だ,という別の説もある。要素還元思考の育児書がちまたにあふれていて、どれがいいのかわからない。しかも、厄介なことに、子供は、しかっても、ほめても、エンカレッジしても、いい子には育たなかったりする。結局どれもだめなのだろうか。このように、要素還元思考にとどまっている限り、答えは出ない。

●システム思考

システム思考の一つの方法は、子供をシステムとして見る発達心理学の体系的な知見を洗い出し、論理的によく理解してから教育することだろう。子供の安全が脅かされていたり、他人の安全を脅かしているときには、頭で理解させるよりも何よりも体の反射系に覚え込ませるためにしかる教育が必要だ。一方、知性が育ってきたら、人間はポジティブな気分のときに成長するから、特別に優れているときには、ほめてあげるとよい。ただし、個別の結果をほめるのでは別のパターンのときに応用できない。フレームワークとしてのやり方をエンカレッジすることによって、新しいことにチャレンジする子供に育てることが有効だ。また、社会をシステムとしてとらえ、学校との連携、専門家の情報へのアクセス、カウンセリングなどを通して、親が悩みを抱え込まない仕組みを作ることも重要だ。

●ポスト・システム思考

システム思考的な教育をやってみるとわかるが、子供はひとりひとり異なる。親の方ももちろん家庭ごとに異なる。教育法の説明を読んだとき、その受け取り方の個人差も大きい。たとえば、ほめすぎてはだめ、といわれても、どこまでがほめすぎかはわからない。比較が難しいから、発達心理学の知見を知っているだけでは子育てはできない。結局、自分を信じ、子供を信じ、家族の信頼を築いて、対話による相互理解を重ねながら、子供と親が一緒に育っていくしかない。育児とは、極めて第一人称的で個人的な学習・成長体験なのだ。

●システム思想

動物は育児書を読んでいるだろうか。NO。本能に従って子育てをしている。昔の人だってそうだ。発達心理学の知見がなくたって、偉大な人物は育った。いや、偉大であることが重要だろうか。幸せならいいのではないか。いや、幸せでなくても、生まれてきて、それぞれに与えられた生を全うし、また自然に帰っていくというのが生命の性だ。誰もそれには逆らえない。だから、本質的には何も悩む必要はない。育児書を読みたくなったら読み、しかりたくなったらしかり、しかりすぎたら反省し、反省しすぎたらリラックスしつつ、なにより家族であることを楽しめばいい。家族であることや、親子として巡り合えた偶然に感謝しつつ。

 

(例13)嫌なやつとの付き合い方

●要素還元思考

いじめっ子だけでなく、大人になっても嫌なやつというのはいるものだ。わがままなやつ、自分勝手なやつ、自慢をするやつ、理屈っぽいやつ、口ごたえをするやつ、態度がでかいやつ、生意気な奴、どなるやつ、怒るやつ、ルーズなやつ、だらしないやつ、人に頼りすぎるやつ、なれなれしいやつ、軽いやつ、見た目が変なやつ、かっこつけすぎるやつ、空気を読めないやつ、人の話を聞かないやつ、人の気持ちを理解できないやつ、話が長いやつ、約束を守れないやつ、礼儀正しくないやつ、目つきの悪いやつ、覇気のないやつ、やる気のないやつ、暗いやつ、人の悪口ばかり言うやつ、木を見て森を見ないやつ。なんとまあ、あげてみると、いろいろといるものだ。私たちは、その悪い特徴を見て、人を嫌っていないだろうか。これが要素還元的な(つまり、嫌いな特徴という要素にとらわれた、木を見て森を見ない)人の見方だ。

●システム思考

心理学には、投影という考え方がある。人が他人を見るとき、自分が気にしている特徴を重視する傾向があり、しかも、その特徴は、自分の持っている特徴でもあるというのだ。自分が強く持っているからこそ、気になる。また、他人の悪い面が気になりだすと、その部分だけが気になってしまうのが人間の心理というものだ。したがって、嫌だと思うばかりでなく、嫌だと思ってしまった自分を振り返って反省する視点も必要だ。また、当然ながら人には悪い面だけでなくいい面もあるし、悪い面はいい面の裏返しでもあるので、悪い面だけを見るべきではないだろう。いい面を見れば、悪い面も気にならなくなるかもしれない。また、悪い面が生じた社会的背景までシステマティックに考えれば同情の余地もあるだろう。悪い点を指摘し、ともに改善するという手もある。

●ポスト・システム思考

嫌な人を好きになろうとすることは、人は必ずわかりあえるというシステム思考に基づいている。これに対し、アメリカの小学校では、「嫌いな人は嫌いなままでもいいから、無視したりせずにつきあいなさい」と教えるという。異なる価値観を容認するアコモデーションだ。日本は多様性が少ない国家、アメリカは多様な国家だから、アメリカでアコモデーションが発達したのだと捉えることもできるだろう。嫌いでも共存せよ、という考え方は、不毛な対立の拡大を招かないから、余計なストレスも感じなくてすみ、合理的でもある。もちろん、日本でも、生活の知恵として、このような考え方を身に付けている方は少なくないだろう。

●システム思想

不毛な対立を避けるために嫌な人と共存する、というのはいいことのようだが、相変わらず嫌いな人がいるということなので、精神的なわだかまりは解決していない。システム思想の立場に立てば、好きとか嫌いとかいう価値から超越できるので、もはや嫌な人だと思う必要がない。単に、そのような特徴を持っている人であるだけだ。自慢する人がいたら、それはすばらしいと思えばいいし、空気を読めない人がいたらそれはそれで読めなくてもいい。怒る人はなだめてもいいし、そのままにしておいてもいい。システム思想に至れば、嫌な人はどこにもいないから、絶対平和だ。

 

(例14)渋滞

●要素還元思考

ハードウェアとしての日本の道路は世界一だが、道路システムはひどい、という話は前に述べた。道路の渋滞を解決できないこともシステム思考ができていないことの典型例だ。私は高速道路を見おろせるアパートの二十六階に住んでいたことがあるが、上から見ていると渋滞発生のメカニズムがよくわかる。カーブや道が狭くなっているところである車がブレーキをかける。すると、すぐ後ろを走っていた車が驚いてブレーキを前の車よりも少しだけ強めにかける。その次の車ももう少し強めにかける。そして、ついには何台目かの車がブレーキをかけて止まらざるを得なくなる。この様子を上から見ていると、自動車速度の縦波が道路上を後ろ向きに伝播する様子がよくわかる。ミミズの運動と同じだ。自分は前進するが縦波は後退する。あるいは、黒板の上のチョークのスティックスリップと同じメカニズムだ。運転手(要素還元思考)はどうして渋滞ができていたのかわからないが、上から渋滞システムを見ているとよくわかる(システム思考)。

●システム思考

登坂車線の終わりで渋滞が発生することもある。登坂車線がなければ渋滞は起こらないのに、登坂車線があるせいで、ずるい車はそちらを通って先に行こうとする。すると、登坂斜線の終わりで合流せざるを得ないので、先ほどと同じブレーキの後退波ができてしまう。つまり、車の量は同じでも、一部だけ車線が広がった後に再び減少すると、渋滞を作り出す道路になってしまうのだ。さすがにこのメカニズムは知られていて、高速道路の合流地点で車線を急に減らさないとか、無駄に一部分の車線数を増やさないとか、いろいろな工夫が行なわれている。以上は渋滞発生防止のためのミクロなシステム思考だが、全体の車の量に対してどこに高速道路を新設すべきかとか、信号のタイミングはどう最適化すべきかとか、そもそも都市に流入する車の量をいかにして減らすかとか、システム思考で道路システムのありかたを考えて渋滞を解消する必要性は高い。

●ポスト・システム思考

ただ、渋滞は本当に避けるべきなのか、という問題もある。流通業の効率化のためには打撃だと言われるかもしれないが、流通業は渋滞することを込みでビジネスモデルを立てている。行楽地の渋滞を見て、実は日本人は渋滞が好きなのではないか、という話もある。まさかと思われるかもしれないが、渋滞が嫌いなら避けそうなものなのに、毎年行楽シーズンの渋滞が繰り返されるところを見ていると、様々な価値の中から渋滞を選んでいる以上、深層心理では多くの人が渋滞を好んでいるという見方もできる。人間は本質的に最適化を目指すのではなく、論理的には矛盾と思われる選択をする生き物なのだ。私は渋滞が嫌いだから、渋滞が発生する日はもう一泊するとか、電車で別のところへ出かけるとか、最適階ではなく満足解を探す。その方が偉いというのではなく、それもまた多様な選択肢の一つだということだ。どちらも、解だ。

●システム思想

日本人は渋滞が好きなのだから何も問題はない、と考えれば問題は解決する。というか、消滅する。これはシステム思想的な解決策だ。道路行政レベルに話を戻しても同じことが言える。道路を作れば誰かが潤う。道路を作るのをやめれば別の誰かのためになる。社会はもともと不平等なのだ。すべての人は生まれてきた環境も生まれつきの気質も異なる。だから、他のすべての事柄と同様、当事者から見ると、政治判断もルーレットを回す運試しみたいなものだ。どちらだっていい。困るのも人生、得をするのも人生。なるようにしかならないのだから、渋滞したらそれを楽しみ、土建業者が儲かったら彼らのためにはよかったと思い、国家の財政赤字が減ったらそれはそれでよかったと思う。それでいいではないか。

 

(例15)利己と利他

●要素還元思考

利己と利他についてはこれまでにも述べてきたが、まとめておこう。一般に、自己中心的で他人の利益を軽視するようなあり方を利己的という。自分の視点に立つばかりで、他人の立場に立って考えないから、独善的でわがままだ。マズローの欲求の階層説によると、欲求は、生理的欲求、安全欲求、所属と愛情の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求に分けられ、人間の欲求は、前にある欲求が満たされないと後ろの欲求に進まない傾向があるという。生理的欲求や安全の欲求が満たされていないうちは、他人とうまくやっていくための所属・愛情・承認の欲求まで進んでいないので、わがままな人にとどまるのかもしれない。

●システム思考

内田樹氏が、利己というのは自分にとって有益ということなので、誰かに利益を与えてリターンが自分に戻ってくることも含めて利己というべきだと言われていた。確かに、一般的な意味での「利己的」だと他人に嫌われたり仕事が回ってこなかったりして結局自分の利益につながらない、という見方もできる。これはまさにシステム思考の因果関係ループだ。ネガティブなループでは利己は満たされない一方、他人を利することによって自分も利益を得るような因果はポジティブなループだ。ゲームの理論として知られている考え方もこれだ。囚人のジレンマゲームなどがこれに当たり、数学的にはどのような行動が長い目で見て得かがシステムとして議論されたり、心理学的には人間の行動がなかなか最適値に至らないことなどが議論される。これを応用した政治や経済のシミュレーションも一定の成果をあげている。

●ポスト・システム思考

ポストシステム思考は、自己と他者、損と得、内部と外部、というような二項対立が不十分であることを指摘する。つまり、利己的であるというあり方に、人間は本質的にはなれないのだ。利己的とは、他者と分離した自己の、損と分離した得がありうるという仮説のうえでの議論だというべきだろう。利己がありえない以上、利己ではない立場にならざるをえない。利己の反意語という意味ではなく、利己の超越と言う意味での利他だ。つまり、前に述べたように、利己と利他を超えてアコモデーションするという意味で再定義された利他だ。

●システム思想

これも前に述べたが、システム思想のレベルでは、「利」という発想自体が消滅する。自分の欲求が消滅するのみならず、他人も無または空なので、自分ではなく他人が利益を得るべきだという「利他」もなくなるのだ。かといって、他人と共生しないという意味ではない。自分も他人も、そして自然も、ただそこにあり、ただ流転する。このような世界で、私たちがなすがままに生きた結果を客観的に見ると利他に見えるかもしれない。なすがままの境地に至っていない人は、利己に見えるかもしれない。しかし、本質的には、利己でもなく、利他でもなく、無なのだ。