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![]() 前野隆司 著書の「はじめに」または「プロローグ」一覧本をお読みになる前に、「はじめに」や「プロローグ」に目を通しておくと、参考になるのではないだろうか? というわけで、掲載します。私の手元にあった原稿であって、最終版ではないかもしれませんので、その点はご容赦ください。 『脳はなぜ「心」を作ったのかー「私」の謎を解く受動意識仮説』筑摩書房、2004年11月(単行本)・2010年11月(文庫) プロローグ 死んだら心はどうなるんだろう 科学技術は、世界にちりばめられたさまざまな謎を解明してきた。すばらしいことだ。しかし、皆さんが本当に知りたいことは、解明されただろうか。 私は、人類が最も知りたいのに解明されていない究極の謎が、二つあると思う。ひとつは、なぜ、どのようにこの宇宙ができたのか、ということ。もうひとつは、なぜ、どのように自分の心は成り立っているのかということだ(図一)。はるかに遠い話と、やけに身近な話だ。どちらも形而上の、どうしたってわからない問題のように思える。しかし、二つの問題は難しさのレベルが違う。 宇宙の謎は、「どのように」には答えられるが、「なぜ」がわからない問題だ。無限に広がり、無限の時間を超えて存在するように思えるこの巨大な宇宙が、ビッグバンで始まり、光の速さで拡大し続けているものらしいということは知られている。しかし、ビッグバンが「なぜ」起こったのかは、知りようがない。何しろ、宇宙の外側のことや、宇宙が始まる前のことは、観測のしようがないため、全くといっていいほど手がかりがないのだ。ビッグバン以前のこともわかる(あるいは、ビッグバンはなかった)、と主張する人も増えつつあるものの、まだまだお手上げに近い。 もうひとつの問題、つまり、自分の心はなぜ、どのようにできているのか、という問いも、科学では解明できない形而上の謎のようにも思える。DNAや脳や身体のことがいかに解明されようとも、身近な小宇宙である心の問題は、もうひとつ次元が上の解けない問題であるかのように感じられる。実際、この問いは、何千万年もの間、科学ではなく哲学の課題だと考えられてきた。 小学校低学年の子供だった頃、私は夜眠れない日々を過ごしたものだ。自分の心は、死んだらどうなってしまうんだろう。どうして自分の心は、この「前野隆司」という肉体に宿り、今という時代に生まれてきたんだろう。どうして自分だけが自分で、他人は他人なんだろう。夜ふとんに入り、まっすぐ上を見ながらそんなことを考えていると、見つめている薄暗い天井がすーっと遠ざかっていき、無限の宇宙の中に一人ぽつんと浮かんでいるような孤独感にさいなまされたことを、今もありありと思い出す。このことを毎日のように考えていたのは、小学校二年生くらいまでだった。いつしか、そんなことはどうせわからないことだとあきらめ、わかりえない宇宙と自分の間にある現実の面白さに気を取られて、それから何十年も生きてきた。まさかそれが幻想だとは気づかずに。 その間の脳神経科学の進歩はすさまじかった。脳神経科学は脳の機能を明らかにしつつあり、ついには意識の神経科学とか、意識の認知科学という学問分野までできた。心の問題は形而上、と棚上げするのではなく、科学者が心の問題を真剣に考える時代がやってきた。「説明された意識」(つまり、「自分が意識の謎を解明した」)というタイトルの本を書いた哲学者さえいる(デネットのConsciousness
Explained。日本名は「解明される意識」(青土社))。 しかし、これだ、という決定的な答えは、実はまだ見つかっていない。私はといえば、触覚はどうやってつるつる・ざらざらを見分けるのだろうかとか、ロボットの筋肉はどうやって作ればいいのだろうかとか、人やロボットの「心」ではなく「からだ」の研究をしてきた。小さな哲学者だった子供の頃のことはすっかり忘れていたといっていい。 ところが、ある日、「心」と「からだ」の成り立ち方はだいたい同じではないか、と考えているときに、急に心の謎を解く手がかりがひらめいた。私は、心がなぜどのように成り立っているのかを、理解したつもりだ。 私がこの本で述べる心の考え方は、これまでの哲学者や認知科学者たちのものとは決定的に違う点がある。従来の心の考え方は、心はだいたいこんなものだが、核心のところはまだわからない、とか、複雑すぎてすぐには作れない、というような煮え切らないものばかりだった。本当にはわかっていなかったのだ。これに対し、私の考え方によれば、心が実に単純なメカニズムでできていて、作ることすら簡単であることを、誰にもわかる形で明示できる。これまで心の謎だと言われていた事柄にも答えられる。だから、近い将来、心を持ったロボットを簡単に作れるようになるだろう。 この考え方を、たくさんの人にいっしょに考えていただきたいと思い、なるべくわかりやすい形でまとめたのがこの本だ。 1章では、脳・心・意識の問題を考えていくための予備知識として、心や意識の定義を述べる。また、心の何がまだわかっていないのかということについておさらいする。 2章では、心についての私の考えを述べる。はじめは違和感があるかもしれないが、天動説から地動説への価値観の反転と同じように、見方を大きく変えれば、心や意識がいかに単純なものとして説明できるかということを、ご理解いただけるのではないかと思う。 3章では、この考え方に従えば、これまでに哲学者がまじめに取り組み思い悩んできたさまざまな思考実験が、いとも簡単にすっきりと説明できることを示す。 4章では、文化・宗教・科学などの社会通念に照らし合わせながら、心が解明されるとはどういうことなのかを述べる。また、ロボットも人と同じように心を持つ未来とはどんな時代なのか、考えを述べる。 5章は補遺だ。ニューラルネットワークやフィードバック・フィードフォワード制御、順・逆モデルなど、心について理科系の言葉で語るための補足説明をする。理科系の議論が得意な人は、最初にこの章を読んだほうが、2章から4章を深く理解できるだろう。一方、理科系の議論に興味のない方は、この章をお読みにならなくてもかまわない。 通読いただいた方に、人の心は実にたわいのないちっぽけなものだが、そうだからこそ、死も何も怖くはないし、ささやかなこの人生は楽しいという、子供の頃の私自身への答えを共有していただけたら幸いに思う。 『錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった』筑摩書房、2007年5月 プロローグ この本は、脳と心に関する私の二冊目の本だ。 一冊目は、『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』(二〇〇四年、筑摩書房)。私たちの「意識」は何ら意思決定を行っているわけではなく、無意識的に決定された結果に追従し疑似体験しその結果をエピソード記憶に流し込むための装置に過ぎない、という話だ。おかげさまでこの本は反響を呼び、多くの方に賛同いただけたと思う。私自身、書き終えたときには、脳と心について書きたいことはすべて書いたので、もはや何も書き足すことはないという、やや傲慢な充実感に浸っていた事を思い出す。 しかし、多くの方にお読みいただいた分、ご批判やご意見も少なくなかった。それらは大きく三つに分けられる。 ひとつめは、受動意識仮説は目新しい考え方ではなく、宗教や哲学、心理学、認知科学など、いろいろなところで同じような事を言っている人はいるではないか、というものだ。マイペースに一冊目の本を書いたときには他人の考えなど気にしていなかったが、言われていろいろ勉強してみると、確かに、似たようなことを言っている人はたくさんいた。「受動意識仮説」のオリジナリティーについては挫折感を感じた面もあったが、しかし、何千年にわたる人類史上にも、認知科学や哲学の専門家の中にも、私と同じような考えを持つ人々がたくさんおられる事に、大いに勇気づけられた。そこで、この点については三冊目の本にまとめた。『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?
―ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』(技術評論社、二〇〇七年)。釈迦や老荘の時代から現代までの思想や哲学や科学の歴史を、意識の受動性や幻想性という視点から見つめる、おもしろい試みになったのではないかと思う。 一冊目の本に対するふたつめのご意見は、「心の哲学」系のご意見だった。心は錯覚だとか幻想だとかいって話を終わった事にするのはおかしいではないか。クオリア(心の質感)の謎は歴然として残っているではないか、というような。 チャーマーズを起点とする「心の哲学」に賛同する方々の主張の主旨は、私にも論理としては理解できる。しかし、私から見ると、心のクオリアという仰々しいものの実在を過信するから迷宮にはまり込んでしまうように思える。 右翼と左翼が相容れないように、彼らの主張と私の考えは相容れない。誤解を恐れずに言うと、身体と独立な心の存在を前提とする「心の哲学」は右寄り、極論すれば何も絶対的なものは存在しないと考える私は左寄り、というとらえ方をすると、両者の立場の違いは理解しやすい。 そんなわけで、反対する者がなんと言おうと、ガリレオの「それでも地球は回る」じゃないが、私は、「それでも心は幻想だ」なのだ。 このため、二つ目のご意見に対して答えるために本書を書くことにした。つまり、心は幻想だ、ということを五感や自己意識に分けて詳しく検討することが本書の目的だ。 といっても、さほど特別なことを述べるつもりはなく、普通に科学的な思考を進めていく人ならば、誰しもが自然に到達する結論を述べるに過ぎないと言ってもいい。とんでも本でも何でもなくて(実際、一冊目の本も一部の方にはそう誤解されたようだが・・・)、普通の科学的な考え方により、心は幻想だと考えざるを得ないということを導く、一般の方向けの本だと思っていただけば間違いない。 脳と心の哲学に詳しい一部の方からは、一冊目の本に対し、単なるコネクショニスト(神経回路網の接続により心が作られると考える者)の主張だ、というご批判もいただいた。そのように批判されても、そうなのだからしかたない。私はエンジニアリングに携わるものであり、コネクショニストの中でも左よりの消去主義者に近い立場なので、その点はご了解の上、お読みいただければ幸いである。 なお、三つ目のご意見は、不滅の霊魂を信じるスピリチュアルな立場からの反論だった。ただし、本書では、スピリチュアルな立場ははじめから排除している。科学的に考えてありえなさそうだと考えるからだ。これも前提なのでご理解いただきたい。なぜ私がスピリチュアルな立場はありえないと考えるかということについてご興味がある方は、『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?
―ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』(技術評論社、二〇〇七年)をごらんいただきたい。 一章では、意識はイリュージョン(幻想)に過ぎないのか、あるいは心の哲学者が言うように大きな謎なのか、ということについて述べる。二章では、私たちが世界を知る手段であるように考えられる五感は、むしろ世界を作り出していると考えるべきだということを述べる。三章では、五感以外の意識について述べる。まず、五感を遮断したときに心がどうなるのかを調べる感覚遮断タンクの体験について述べる。また、瞑想の境地や悟りの境地について述べる。最後に、真善美や愛や幸福もイリュージョンと考えられることについても述べる。 一冊目の本で説明不足だった点を補うので、続編としてお読みいただけると思う。ただし、一部、重要な点は繰り返しにならざるを得ないので、その点はご容赦いただきたい。 もちろん、完結した一冊の本になるように心がけたので、私のこれまでの本を読んでいないけれども本書を手にとって下さった、という方にも大いに楽しんでいただけると思う。 できれば、いろいろな方が、読み終えた後で、確かに心ははかない幻想だなあ、でも、それって単にむなしいだけの絶望感とは違い、すばらしく幸せな考え方なんだなあ、と実感してくださるならば幸いである。 『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? ―ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』技術評論社、2007年8月 プロローグ 私たち人間にあって、ロボットにはないもの。それは、この生き生きとした「意識」や「自由意志」である。直感的にはそう思える。 しかし、実は、人の「意識」は受動的な機能に過ぎず、実は何ごとも自分で決めてはいないのではないか。心の主人のような顔をしている「意識」は、実は「無意識」または「深層意識」の奴隷なのではないか。そんな「意識」は、自分の体験をエピソードとして記憶できることが環境適応のために有利だから、進化的に生じたに過ぎないささやかな存在なのではないか。また、意識の生き生きとしたクオリア(感覚質)は、確固として存在する現象というよりも、幻想のような頼りのないものなのではないか。つまり、人間とロボットは、私たちが直感するほどには違わないのではないか。 そこで、自分の考えを、『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房)で述べた。本書は、幸い、多くの方に興味を持っていただけたようだ。この本の内容については第2章で簡単に述べるが、実は、自分の考えしか書かなかった。 もちろん、自分の考えを補強するために他人の研究結果についても述べた。宗教や哲学についても少しはふれた。しかし、人類の長い歴史の中で、自分と同じような考え方があったのか、また、あったとしたらそれらはどのように発展してきたのか、ということについては全く触れなかった。 しかし、私が前著で提示した問題、すなわち、意識は無意識に対して受動的なのではないか、あるいは、意識は幻想のようなものなのではないか、という問いは、私が始めてとりあげた問題ではない。いや、むしろ、釈迦や老子、デカルトから現代哲学者、科学者に至る多くの人たちが数千年に渡って考え続けてきた課題なのだ。 そこで、本書では、歴史の潮流を独断で俯瞰し、一つの大きなトレンドをあぶりだしたいと思う。つまり、意識は受動的なものと捉える東洋思想の時代から、キリスト教、近代哲学と続く西洋思想の時代、すなわち、意識は能動的と考える者が主流の時代、そして、東洋的な考え方が西洋にも受け入れられ始め、再び受動性へと向かう現代、という数千年単位の波動を描き出したいと思う。もちろん、思想や哲学の歴史は私が問題にする意識の受動性または幻想性のみを柱に発展したわけではないので、このような見方は独断的・一面的とのそしりを免れないかもしれない。しかし、私は、思想史・哲学史の研究者ではないので、一般的な思想史・哲学史をまとめるつもりはないし、できない。そうではなく、本書は、思想・哲学の大きな流れを、意識の受動性・幻想性という断面から独断で切り取ってみるという試みなのである。したがって、断片的だというご批判はご容赦いただきたい。そうではなく、私が独断と偏見で切り取る断面を、その切り口からお楽しみいただきたいと思うのである。 本書の構成は以下の通りである。 第1章では意識についての考え方とそのための基礎知識を簡単に述べる。第2章以降では、主に意識の能動性・受動性、あるいは幻想性を主題とする形で、宗教家や哲学者の思想をみていく。まず、第2章では、釈迦や老荘思想をはじめとする東洋の宗教や思想における意識の捉え方を述べる。キリスト教、イスラム教にも少しだけふれる。第3章では、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に代表される近代哲学における意識の議論と、それに対抗したものの主流にはなれなかった哲学者たちの系譜を見ていく。また、デカルト的な近代哲学を否定する現代哲学についても見ていく。現在の心の哲学の一般的な考え方にも触れる。そして、第4章では、心理学における意識観と、理工系の世界で流行している自律分散的なあるいはボトムアップ的なものごとの捉え方と意識の関係、そして現代の心の哲学について述べる。 第5章では、趣向を変え、私の立場を明らかにするための一環として、第一線でご活躍の哲学者との対談を行いたいと思う。 本書が、私と同じような疑問を持つ方々が心について考えるための一助となれば幸いである。それから、最後に記しておきたい。私の浅学のため、深くて長い歴史を持つ宗教や哲学、その他諸科学についての記述には不十分な点が少なくないかもしれない。このため、なるべくたくさんの方々からのご批判・ご意見を頂ければと願っている。本書がたたき台となって、心や意識についての議論が、学問領域を超えて大いに盛り上がることを期待したい。 『思考の整理術―問題解決のための忘却メソッド』朝日新聞出版、2009年10月 はじめに 専門はなんですか?とよく聞かれる。 少し前は、「ロボティクスです」と答えていた(もっと前は、振動工学です、と答えていた)が、脳と心の本を書いてからは、「もともとの専門はロボットですが、最近は脳と心の哲学についての本も書いています」と言うようになった。最近は、倫理学も教えているし、幸福学という新分野の研究もおこなっている。触覚知覚を中心とした心理学的研究もおこなっている。草の根的なソーシャルデザイン(NPO、地域密着型農業、社会企業、ユニバーサルデザインなど)の研究と実践も始めたし、教育についての研究もおこなっている。哲学者に、哲学的な思索をする人はみな哲学者だ、と言われたので、それを真に受けると哲学者でもある。ある市民講座で詩を作った際に、もはやあなたは芸術家だ、と言われたので、それを真に受けるとアーティストでもある。プロのダンサーの弟子なので、ダンサーでもある。座禅や滝修行もしているので、プチ宗教家・思想家でもある。もちろん、家庭での専門は、愛妻家・子煩悩だ。 要するに、いろいろなことをしていて、専門を一つだけ述べるのは困難だが、あえて一言で言うなら「システム論」だ。二〇〇八年度に開設した慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科に移って以来、今、最も興味を持っているのはシステム論(システム哲学、システム科学、システム工学)だからだ。 システム論とは何か、というと、これも説明が長くなる。一言で言うなら、二つ以上の要素から成るものは何でもシステムであり、それについてあらゆる角度から論じたものがシステム論だ。 システム論という言葉が便利なのは、ロボットシステムも、脳システムも、心システムも、社会システムも、教育システムも、芸術システムも、宗教システムも、家族システムも、みんなシステムだから、私のやっていることはすべてシステム論に含まれると言い切ってしまって矛盾はない、という点だ。しかし、そう説明したら、ある人に手厳しい指摘を受けた。「専門がシステム論だというのは、要するに、何も述べていないのに等しいですね」と。 そうではない。私は、複雑な物事に対する、システムとしての、本質的・根源的・大局的・俯瞰的な見方に興味があるのだ。つまり、システムをあくまで分解していくことによって理解しようとする、要素還元論的な見方とは対極の。 したがって、本書は、記憶というシステムについて論じた「記憶システム論」だ。タイトルに「記憶」という単語は出てこないが、記憶の本だ。といっても、神経生理学者がするように、記憶の物理メカニズムについて要素還元論的に論じたわけではない。そうではなく、「記憶システム」とは何か、それは、なぜ、何のために存在するのか、そして、何の役に立つのか、その全体像についての考えを述べた本だ。 タイトルは、『思考の整理術』〜問題解決のための忘却メソッド〜。これも、わかるようなわからないようなタイトルだが、要するに、以下のような意味だ。 「記憶システム」について論じようと思ったら、「思考システム」や「システム思考」との関係を論じないわけにはいかない。なぜなら、記憶システムの本質は、忘却が成長やシステム思考や幸福と結びつく、という意外なダイナミズムの面白さにある、と考えるからだ。そして、忘却は、記憶の整理、思考の整理につながっており、それらは、大局的な問題解決につながっている。これを、ちょっとおもしろがりながら楽しいタイトルにしてみたら、『思考の整理術』〜問題解決のための忘却メソッド〜になったというわけだ。 タイトルの趣旨は間違ってはいない。でも正直、ちょっとやりすぎた気もする。そこで、すこし言い訳を試みてみたい。 「思考の整理術」というと、システムデザイン・マネジメント研究科で教えているような、様々な「多視点からのシステマティックな可視化手法や体系化手法」が私には思い浮かぶ(そちらについても近刊予定)。本書はそれらについて解説するものではないので、タイトルと内容がすこし違う気もする。しかし、ここがシステム思考の面白いところで、システムは、見方によって見え方が違う。思考の整理のためには、記憶の忘却というメカニズムが本質的に重要だ、という点を強調したと理解し、サブタイトル込みで捉えると、的外れではないと思っている。 「忘却メソッド」というネーミングは新しい。新しければよいというものではないが。 私自身は、要素技術としてのハウ・トゥー本を書く気はさらさらない。役に立たなそうなメソッド本の隆盛には、むしろ顔をしかめる側だ。しかし、多くのメソッド本では欠落している点、すなわち、システムトータルとしてのホリスティック(全体的)な手法を体系的に論じることには興味があるし、使命感を感じる。とはいえ、「忘却メソッド」なるものを売り出す野心はない。むしろ、記憶力信仰が隆盛を極める現代だからこそ、逆に、「忘却」というシステムが人間にとって極めて重要なシステムであることや、ちょっとしたテクニックで「忘れる力」を強化できるという面白さを、メッセージとして読者に伝えたいという意図から、あえて「忘却メソッド」という癖のある言葉を用いてみた。そういう意味では、個性的なメッセージ性を重視し、あえて誤解を恐れず、リスクをとった、というとかっこつけすぎだろうか。 そんなわけで、このタイトルには、「誤解されなければいいなあ」という思いと、多少違った期待で手に取ってくださった方も、「いい意味で予想外で、面白かったしためになった」と言ってくださるといいなあ、という思いが込められている。 もうひとつ説明を。 記憶の話は他の本にも書いたことがあるが、本書は他の本とは異なる。本書では、専門的でオリジナルな記述よりも、多くの一般的な事例を述べることに注力した、という点だ。これだけ有名人やスポーツや産業界の事例をふんだんに紹介したことは、私自身、これまでになかった。わかりやすくして、多くの方に、「記憶の時代」から「忘却の時代」へのトレンドの変化ないしはパラダイムシフトについてお伝えしたいと思ったことが、本書がそうなった理由だ。そういう意味では、読みやすくわかりやすい本になったのではないかと自負している。 もしも、誤記、間違い、説明不十分など、問題のある個所があったなら、それはすべて著者の責任である。ご指摘いただければ幸いに思う。また、私が本を書くことの目的は、考えを学術界のみならず広く世に問い、読者の方々とコミュニケーションし、お互いに何かを得ることだ。感想・ご意見・ご批判などあれば、ぜひご連絡いただければと切に願っている。もちろん、願わくは、本書を読んでくださった方々が、忘却の重要さを認識し、今の日本に欠けていると言われている、物事を大きな視点から俯瞰して新しい構想を提言する力や、まわりに惑われず幸福に生きていく力につなげてくださったなら、望外の幸せである。 『記憶 ―脳は「忘れる」ほど幸福になれる!』ビジネス社、2009年3月 プロローグ 私は記憶力が悪い。恥ずかしながら、尋常でないくらい悪い。 そう思い知らされたのは、高校生のころの古文の時間だった。先生が皆に教科書の文を暗記させたときの事だ。 記憶力が悪いはずなのに、あの夏の日のことは鮮明に思い出せる。 先生は言った。これから十分間、このページの文章を暗記できるところまで暗記するように。暗記は、古文上達のための最高の方法だぞ。 私はもともと古文が苦手だった。日本の古典への興味は少なからずあったが、授業としての古文には全く興味がわかなかった。というか、苦痛だった。 暗記しろといわれたのは、これから新しく習うところ。もちろん予習なんかしていないので、何が書いてあるのかさっぱりわからない。しかも暗記は大の苦手だ。しかし、しかたないので、まず、最初の文を呪文のように覚え、頭の中で復唱してみる。さすがに、何分も時間をかけると何とか覚えられたような気がする。そこで、次の文に行ってみる。二つ目の文を覚えかけ、最初から復唱しようとする。すると、なんと、最初の文はもう完全には思い出せない。やばい。また最初の文を頑張って覚えなおす。なんとか覚えたようなので、再び次の文に行ってみる。しかし、二つ目の文を覚えているうちに、再び一つ目の文を忘れてしまう。やばい。 こんなことを繰り返していたら、先生は言った。 はい、終わり。十分経ったぞ。 先生はみんなに聞いた。どこまで覚えられたか、と。十分間で、最初のたったひとつの文章も覚えられなかったのは、どうやら私だけだった。みんな三行とか五行とか十行とか、私よりもはるかに覚えている。自分だけがすーっと小さくなっていくような錯覚を覚え、汗をかいた。驚愕したのは、高岡君。いや、高山君だったか、高西君だったか忘れたが、後に東大文Iに行った同級生の記憶力だ。なんと、高なんとか君は、十分間で、古文の教科書見開き二ページ、呪文のような古文を最初から最後まで暗記し、皆の前で、間違えもせず、つまりもせずにとうとうと諳んじたのだ。 私は愕然とした。人間の能力にはかくも大きな差があるのか(ちなみに高なんとか君は東大在学中に司法試験に合格し、検事になったと聞く)。 ショックだった。同じ時間に、私の何十倍もの量を覚えられる人がいるとは。世の中は、なんて不公平なんだ。個人差は努力で超えられるという人がいるが、高なんとか君と同じだけの量を記憶するためには、僕は何十時間努力すればいいんだ。そんなの無理だ。どんなに努力をしても超えられない。先天的に備わった個人差の壁がいかに巨大かを思い知った瞬間だった。 それまでは、人間、努力すればなんとかなる、と思っていた。努力によってこそ、人の差はつくのだと思っていた。しかし、努力ではどうにもならないこともあるのだ。そう思わざるを得なかった。 それでもぐれずに生きてこられたのは、記憶力がこんなにすさまじく悪くても、人並みに暮らせてきたからだろうか。 それにしても、走る速さを比べてみると、速い人と、遅い人と、大雑把に言って、差は二倍にもならない。これに対し、記憶力は、何十倍も違うのだ。これでは仕事の能力も何十倍と違うのだろうか。なんて差だ。 確かに、受験勉強では格差は明確だった。高なんとか君は軽々と東大合格圏だったが、私の方は暗記科目―国語、社会、英語―がことごとく苦手だったので、当時の共通一次試験の結果を重視せず、二次試験の数学と理科(つまり、あまり記憶に依存しない科目)で勝負が決まる東工大しかありえなかった。 そんなわけで、今でも記憶力に関してはものすごいコンプレックスがある。しかも、年齢とともにさらに衰えていく。これは、実に嘆かわしく悲しい。 しかし、これだけ記憶力が悪くても、それなりに生きて来られたところを見ると、もしかしたら記憶力が悪くても大丈夫なんじゃないか、という気もしないでもない。いや、もっと言えば、実は、記憶力なんて悪くてもいいんじゃないか、という気さえする。もしかしたら、私の脳は、覚えた事をそのまま思い出すことはできないが、脳の中のどこかではうまいこと使っていて、別のどこか大事な場面で使えるような都合のいい構造になっているということなんじゃないだろうか。四十歳を超えるとさらに記憶力が劣化して物忘れがひどくなってきたが、これもさほど問題ではなく、もしかして何かいいことなんじゃないだろうか。普通の人が聞くと、都合のいい楽観論に感じられるかも知れないが。 気が付くと古文のショックから三十年近い月日が経っていて、最近は脳と心について考えたり述べたりする機会が増えた。こうして脳や心や記憶について考えるうちに、最近になって、自分にとって都合のいいかつての仮説は、確信に変った。 そうだ。記憶力は悪いほどいいのだ。そして、歳をとって記憶力が悪くなるのも、悪いことではないのだ。うそだと思う方もおられるだろうが、私は本気だ。 本書は、脳のどこがどんな記憶の役割を担っているか、というような内容の解説本ではない。私の専門は脳科学ではなくロボティクスだ。ロボティクスとは、ロボットをどう作るかという学問だが、見方を変えると、人間を単純化したモデルであるロボットを介して、システムである人間を理解することだともいえる。本書は基本的にこのアプローチに基づく。すなわち、ロボット制御のための言葉を人間に当てはめて、複雑に思える人間の記憶という行いを、あたかも機械の動作メカニズムのように解き明かしていこう、という試みだ。そして、主題は、「記憶力なんて悪くてもいいんだ」あるいは「記憶力が年齢とともに衰えていくことは、喜ぶべきことなんだ」ということを論理的に説明し、皆さんに納得していただくことだ。 ああ、記憶力が悪くてよかった。それに、これからもっともっと記憶力が衰えていくとは、なんて幸せなんだ! 皆さんにも、こんな感じを実感してもらえればと願う。 『思考脳力のつくり方―仕事と人生を革新する四つの思考法』角川書店、2010年4月 はじめに――「仕事に役立つシステム思考」から「よりよい人生の歩み方」まで 木を見て森も見る方法 いい仕事とは何だろうか。 ベスト・ジョブス・イン・アメリカ(BEST JOBS IN AMERICA)のナンバーワンはシステムズエンジニアだという。CNNの2009年の調査結果だ。収入、満足度、成長性、ストレス、社会貢献といった指標の総合評価結果だ(ちなみに、私がいま従事している大学教員という仕事は三位だそうだ。悪くない)。 システムズエンジニアとは何か。 CNNの記事を直訳すると、以下のようになる。 「彼らは、主要な交通ネットワークシステムから軍事防衛プログラムまで、様々な大規模複雑プロジェクトを「大きく考える(think big)」マネージャーである。必要な技術的スペック(仕様)を決定するとともに、プロジェクトの詳細部分を担当するエンジニアの仕事のコーディネートも行なう。」 システムズエンジニアというと、日本では情報系のエンジニア(SE)のことと考えられがちだが、本来の定義ははるかに広い。前述のように、都市システムや航空宇宙システムなど、社会システムやハードウエアシステムも含む問題を全体レベルで解決する職種のことだ。 つまり、「木を見て森も見る」仕事だ。 システムズエンジニアがアメリカで重要な仕事と位置づけられている理由は、あらゆるシステムが大規模・複雑化し相互に入り組んでいる現在、システムとしてものごとを捉えることの重要度が増しているからだといわれる。このため、システムズエンジニアリングでは、システムの問題を解決するための様々な技法や方法論を教育する。 もちろん、日本でも、ものごとの全体をシステムとして捉えることは極めて重要だ。にもかかわらず、日本人は、大きな視点からものごとをトータルに捉えて斬新な提言を行なったり未知の問題を解決したりすることが苦手だといわれる。だから、日本でも、システムとしてものごとを捕らえるやり方を体系的に教育する必要がある。 システムとは、二つ以上の要素から成り立つものの事だ。本来、システムには、システムズエンジニアが扱う「技術システム」「社会システム」のみならず、「人生」「宇宙」のようなものも含む。 私が所属する慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科でも、アメリカで言われているようなシステムズエンジニアリング(システム工学)を基盤として、技術システムから人間・社会システムまでのデザインを行うための学問体系とその実践法を教育している。つまり、様々な事象をシステムとして捉えられる人材の育成だ。もっといえば、日本の未来のベストジョブを創り出すというミッションを担っているといってもいい。 本書は、私が教育してきたシステムとしての考え方を体系的に述べた本だ。システムとしての物事の捉え方を整理し理解するための方法を、多くの方々にご理解いただければと思う。ただし、システム工学だけでなく、システム思考、システム科学、システム哲学、システム思想を含む。 人生はシステムである ところで、システムについて体系的に人に伝えるのはとても難しい。システムとは何かを他人に伝える際に、以下のような、超えがたいパラドックスが存在するからだ。 「システム思考が身についた人にしか、システム思考は理解できない。」 「システムについて抽象的に語ると理解されず、具体的に語るともはやシステムの説明ではなくなる。」 人生と同じだ。 いい人生とは何だろうか。これも人に伝えるのが難しい。 長老が、「負けるが勝ち」「失敗は成功のもと」「挫折は幸せのためにある」といくら言っても、その境地に達していない人には理解できず、単に説教に聞こえる。 失敗を糧に何度も苦労した結果として、何かコツのようなものをつかむまでは、成功への道筋を実感として理解することはできない。そのような実感を経験したことのない人には、抽象論は理解しがたい。一方、有名人や成功者が具体的に語ると、美談としては理解できるが、自分の問題としてはやはり理解できない。 長老が、「世界と自己は一体である」「自己を捨てることによってこそ自己は生きる」「なすがままにまかせよ」といっても、抽象的過ぎて、なんのことだかわからない。説教にすら聞こえない。だからといって、なすがままに生きる自分の生活について長老が具体的に説明しても、若者には退屈な逸話にしか聞こえない。 人生のパラドックスがシステムのパラドックスと相似形である理由は、人生がシステムだからだ。つまり、人生というのは、様々に入り混じった大規模で複雑な事象の関係性の中で、延々と判断を繰り返す、自己システムのデザイン&マネジメントだからだ。 人生のパラドックスを超越した先に見えてくるもの 世の中には様々な本が満ち溢れているが、どの本も一面的だ。なかなか、システム全体を捉えることができない。本書も、有限な内容なので一面的かもしれないが、ものごとを考えるときに必要な目前の要素から、人生、人類、世界というホリスティック(全体的)システムまで、その全体像のつながり方を、工学・科学・哲学といった学問分野を超えて語るという意味では、当然ながら、その一部を述べた本よりも多面的かつ包括的だ。 あらゆる仕事を行なったり、あらゆる人生を歩んだりする際に、その基盤・基軸となるような、大げさに言えば仕事と人生のバイブルになるような内容を、読者の皆さんにお伝えできればと思っている。 「仕事に役立つシステム思考」から「よりよい人生の歩み方」まで、これまでの日本の教育に欠けていた部分を体系的・網羅的に述べた本だといってもいい。 システムズエンジニアの定義を人生に拡張するなら、「あなたは、仕事から家庭まで、大規模で複雑な人生を「大きく考える」マネージャーである。あなたは、様々な要因を考慮して人生の目標やビジョンを決定するとともに、日々の生活上のさまざまな事柄の調整も行なう。」ということになる。そのハウツーをシステマティックに述べた本だといってもいい。 ところが、何らかの事柄について説明する本(説明文)というシステムも、システムなので、当然ながらシステムとしてのパラドックスに従う。 本の説明内容が身についた人にしか、その本の内容を理解できない。 しかし、その本の内容が身についた人には、もはや知っているのだから、容易すぎて退屈である。 逆に、身についていない人には、完全には理解できないから、難解すぎて眠くなる。 しかも、本書は、システムについて語る本だから、システムについて抽象的に語ると理解されず、具体的に語るともはやシステムとしての理解ではなく、局所的な部分の理解に陥る。 ある作家の方が、ある名著を子供のころに読んで感動したが、大人になって読むと全く別の意味で感動した、と言われていた。すばらしい本だ。 本書も、できれば、システムについての理解がまだ浅い段階、深めつつある段階、よくわかるようになった段階で読んでいただき、それぞれのフェーズに応じて様々なことを受け取っていただけたなら、本というシステムのパラドックスを超越できるのではないかと思う。 もちろん、どなたにも一度読んだだけでご理解いただけるよう、最善は尽くしたつもりなので、読者の方に、本のパラドックス、システムのパラドックス、人生のパラドックスを超越していただけたらと願っている。 |